本稿には『真理』というテーマに関する引用文の選集を発表する。これはマイトレーヤの教え(マイトレーヤからのメッセージ『いのちの水を運ぶ者』、および『いのちの法則』)、ベンジャミン・クレームの師のことば『覚者は語る』、およびベンジャミン・クレームの著書から抜粋したものである。
人はもはや恐れる必要がないことを、光と真理のすべては人の心の中にあることを示すことが、わたしの目的である。この簡単な事実を悟るとき、人は神となるであろう。神の本質は愛することである。神の目的は奉仕することである。分かち合いと正義を通して神を識る。この簡単な真理を広めなさい、我が友よ、そして偉大なる行為をなしなさい。
(『いのちの水を運ぶ者』第98信p.285-286)
世界は人間存在の真理に目覚めつつある――人間は神聖なる存在であり、魂としての本当のリアリティー(実相)の外的な表現である。あらゆる栄枯盛衰を通して、人間の魂はその人を守りそして道を示してきた。神経がすり減っているときも、高邁な仕事をしているときも、いやいやながら努力をしているときも、魂がそこにいなかったときは決してない。人間(肉体人間)と魂はひとつである。それが、人間に発見されることを待っている真理である。魂はこの啓示の目覚めを待っている。人間は人生における見習い修行の終わりにきている。これからは、その魂がより高位のそしてより明確な道を示す。
(『覚者は語る』―ミッシング・リンク―p.572)
私の場合は、過去27年間キリストとハイアラキーの帰還に関する情報を伝えてきましたが、その間、堅く保持してきた要素があります。それは特に「私が言っていることは私の経験によって真実であると私は信じている」というものです。信じていないことを真実であるとは言えません。それを確信を持って言えないのです。したがって、それを言うことは全く意味がありません。あなたが言っていること自体が真実であり、個人的な経験による確信を持って言うならば、人はあなたを信じます。もしそれが真実であるならば、それには真実のみが持つ力(パワー)があります。もしそれがグラマーであり、虚偽であり、真理の幻影であるならば、それにはそのようなパワーがありません。
(『協力の術』p.328-329)
キリスト・マイトレーヤは、「真理」を請い願う世界に対して「教師」の役割を担うべく構えておられる。
(『覚者は語る』―キリストの再臨―p.26)
真理は多くの顔を持つが、主な和音は個人の裡にある。あなたが一体性を感じるや否や、あなたが語るとき、真理の基本的な和音が裡で奏でられる。「わたしを体験しなさい。本来のあなた自身でありなさい。あなたが本来のあなたであろうとするや否や、あなたは自分が誰であるのかを、なぜなのかを、体験する」
「人々は応える。しかし、もしあなたが真理を曲げようとしたり、それで金を儲けようとしたりすると、それは非常に歪んだものとなり、人々は興味を失う」
(『いのちの法則』p.36-37)
ほとんどの人々はグラマー(幻惑)とイリュージョン(錯覚)の両方を持っています。イリュージョンはメンタル想念でアイディアを扱います。誰もがそれを持っています。世界のメンタル体、メンタル界は何十億もの想念で満たされています――巨大なもの、小さなもの、常に拡大し、常に変化しています。これらがメンタル想念形態です。
アストラル/感情的な想念形態もあります。それらは感情の働きを含みます。感情的想念と共に私たちは感情、感覚を体験しそれに意味を与えます。その意味が真実でないならば、グラマーです。それに対するメンタル体の働きによってそれがグラマーだと知ることができます。グラマーは、メンタル体を通してグラマーに作用する魂の光によって克服されます。メンタル体の洞察はグラマーを克服するために利用されなければなりません。魂の光、すなわち直観が、イリュージョンであるメンタル想念を克服するために使われなければなりません。それらはイリュージョンなのか真実なのかのどちらかです。真実は常にそこにあり、発見する必要はありません。グラマーがなければ、グラマーに満ちた感覚を体験することはなく、あな� �の感覚は真実です。それはみぞおちからではなく、ハートから来ます。それはアストラル・エネルギーの誤用ではありません。もしアイディアが真実であれば、それは魂から来たものであり、創造的、啓明的、啓発的です。それがイリユージョンであれば偽りです。その欺瞞性を示すためには、直観、魂の光が必要です。
(『生きる術』p.285-286)
あなたが一つのことを考えていながら、他のことを言い、そしてさらに異なったことを行うとき、あなたは失われる。心(マインド)の正直さは正直な言葉と正直な行動につながる。この調和が平安と幸せにつながる。「あなたが泥棒であろうと、聖者であろうと、いま、直ちに始めることができる」
(『いのちの法則』p.60)