カントについて。カントは、主観と客観は一致しないと結論づけた。主観と客観の一致を保証することはできないと。しかし、カントは人間が自分の外側の世界を認識するしくみが同じであるならば、人間同士の間で共通理解という形での客観認識は成立可能だとする。
そしてまたカントは、「世界にはじまりや果てはあるか」とか「すべては因果法則にしたがっているのか、それとも自由はあるのか」といった類の、自分の感覚に現れたこと以外の、純粋に観念的な問いについては、それはアンチノミー(二律背反)な問いであり、人間にはそれに答えることができないとする。平� ��く言うと、それは現実離れした観念的な問いであるからということだ。
「全てのあらゆることが因果律によって定められており、人間の自由意志というものは存在しない」といったことについて人間にはその真偽を判定することができないとしながらも、カントは、しかし人間の自由意志を肯定するのだ。
山竹伸二 「本当にわかる哲学」84ページより引用
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◎道徳と自由
形而上学的な問いに答えはないのだとすれば、一体、哲学に何ができるというのか、疑問に思う人も多いだろう。自分にとって哲学は、形而上学的な問いの答えを求めること以外ない、そう主張する人もいるかもしれない。
ドア、歌詞、人々は奇妙です。
しかし、カントは形而上学を無駄な努力として捉えていたわけではない。形而上学が求めてきた対象は認識不可能だが、意志や欲求の根拠として実践の指標となり得る。それは理論的には認識できないとしても、私たちの実践にとっては必要なものなのだ。
この場合、カントの念頭にあるのは「自由」の問題であり、人間が自由か否かは理論的には認識不可能だが、しかし道徳的な実践においては、自由があることが前提になる。自由な行動が可能でなければ、道徳的な善悪を判断して行動することなど、まったく無意味になってしまうからだ。
ここで、「すべては因果法則にしたがっているのか、それとも自由はあるのか」という、先に述べた問い(� ��ンチノミーになった問い)を思い出していただきたい。
たとえば、人間は衝動に左右されて行動するのではなく、自分の欲望を制御し、道徳的な行為を行うことができる存在だ。
このとき、私の道徳行為を自然の因果連関のなかに組み込んで考えれば、それは決して自由な行為とは言えない。その行為を導いたのは、たとえば彼の親の影響によるものであった、などというように、外的な原因をいくらでも遡行して挙げることができるからだ。
世界を因果関係のある秩序として考えるかぎり、そこに自由は存在しない。
しかし、こうした因果秩序は私が主観において与えているため、「私」は因果秩序の外側に存在することに、つまり因果関係に規定されないことになる。「私」を認識対象として見るかぎり、因果関� ��に絡め取られているように思われ、自由は存在しないように見える。だが、自分の意志で実践する主体としての「私」という観点からすれば、自由はないと困る(要請される)のだ。
サタデー·ナイト·フィーバーソング "ハッスル"
そしてカントによれば、自由は、自己中心的な衝動を抑制し、他者のためになる善きおこない、道徳的な行為によって実現される。
では、一体なにが「善きおこない」なのだろうか?
これについては、カントの有名な言葉がある。それは、「汝の意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」(『実践理性批判』)というものだ。要するに、あなたの行動が自分勝手なものではなく、誰もが従うべきであるような、世の中全体に調和をもたらすような行動の基準(普遍的立法)に適っていれば、それが「善きおこない」なのである。
このように、社会の価値観や誰かの言動に依拠して行動するのではなく、衝動に任せて行動するのでもなく、自分自身で考え、理性的 に判断して行動するところに、人間の自由が存在する。それは道徳的な行為においてこそ実現されるのである。
◎カントの功績と問題点
以上のように、カントは「客観的な認識は可能か」という問題に対して、「十分に可能である」という答えを導き出した。
なるほど、ヒュームの言うとおり、主観の外側にある客観的世界(世界それ自体)を正確に認識することなど不可能だ。それは認めざるを得ないし、物自体が認識不可能であることは、カントの出発点でもあった。
しかし、客観的世界それ自体は認識不可能であっても、主観に現れた世界の秩序は他者との間で共通了解が成り立っている。それは他者と同じ認識の枠組みを持っているからであり、他者と共通了解ができる以上、それは普遍性のある秩序だと言え るし、客観的な認識だと考えることができる。カントはそう考えたのである。
歌詞は"バラのEREが咲い方法最低気温"
こうした発想の転換を、カントは"コペルニクス的転回"と呼んでいる。事実、それはまったく新しい普遍性の捉え方であった。
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う〜む。自分勝手ではなく、世の中全体に調和をもたらすような行動。それが善きおこないであり、そういう選択を行うことが自由である。
調和、全体最適を目指すことこそが自由である、と。
それは、悪法もまた法であるとして、裁判の判決に従い、脱走の機会があったにもかかわらずあえてそれを拒み、自ら毒をあおいだソクラテスの行動を思い起こさせる。善とは何か?自分自身の考えがありながら、判決に自らの意志で従ったソクラテスの答え� ��ある。それはまさに、カントの言うところの「自由」をソクラテスは選んだということであろう。「善きおこない」を。命を賭して。
自分勝手は自由ではない。・・・それは世間一般の自由の概念とは反対であるように思われる。世間的には、自分の好きなように振舞う自分勝手な行動を指して自由と呼ぶのではないだろうか。
カントの言っていることはわかるのだが・・・
そしてもうひとつ、善きおこないを選ぶことこそが自由であるとカントは言うが、あえて悪を選ぶ自由もあるのではないだろうか。
私にはそう思える。
それはしかし、問題のポイントがカントの主張とは、ズレているんだろう。つまり、「善」と「悪」の定義の問題だ。どういうことかというと、世間では「悪」とされていることが実は私 にとってはそうではないことがありうるということ。私にとっての正義が、世間からは「悪」とみなされることがありうる。
その時に、どういう行動をとることが「善」なのか?自分にとっての善が世間にとっての悪。普遍的立法の原理が、世間と自分とでズレているケース。
これは難しい問題だ。多くの場合、個人の独自の考え(ズレ)というものは、やっぱり世間一般からするとおかしなことが多い。「それは個人的事情でしょ?」という場合は、全体最適な観点からは間違っているという場合だ。通常、法というものはそうした観点から適用される。個人としては正しいと思った行為であっても世間からすれば正しくないと裁判で判定されれば、罰が下される。
しかし、世間が正しいのか?多数決が正しいのか?
多数決は正義を保証するものではない。それは原理ではないのだ。現実的な解決を� ��出すための手段であり、手続きである。正しさを保証するものではない。かつては天動説が主流であり、ガリレオ・ガリレイが裁判で負けた事実をみてもそれは明らかだ。世間が正しいとは限らない。
正義はどこにあるのか。それは、私の内にあると信じたい。
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