ルカの福音書10章に強盗に襲われた人をサマリヤ人が救う話が出てきます。
これはイエスのたとえ話です。律法学者が自分の正しさを示そうとしてイエスに尋
ねました。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができ
るでしょうか?」「律法には、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ..とあり
ます。」
ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その
人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げていった。
たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎ
て行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて
行った。
ところ� ��、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに
思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に
乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「介抱してあげ
てください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」
ここまでの内容は聖書のルカの福音書10章に書いてある通りです。私の聖書は新
改訳ですが、そのまま写しました。
イエスキリストが何を意味してこのたとえ話をされたと思いますか?
私はまだ4月に救われて、幼いキリスト人ですが、心にはっきりと刻まれているの
は、イエスキリストが私の罪を完全に清めてくださったことです。私には罪があり
ません。イエスキリストが死なれたように、罪人であった私も死にました。
そのために必要な全ては、聖書の中にあります。
"そうパパどこに住んでいますか? "
しかし、聖書をいくら読んでも、人間の知恵では悟ることができません。
主はこう言われました。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢いものの賢さを
虚しくする」コリント人への手紙第一1:20でパウロが話しています。
「この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。」
ルカの福音書に話を戻すと、律法学者がイエスに質問しました。
「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょう
か?」聖書には、この学者が自分の正しさを示そうとしていると書いてあります。
その質問に対して、イエスが語られたたとえ話の中に登場している強盗に襲われた
者は、実はこの律法学者のことを表わしています。この人は、半� �しされているの
でとても動ける状態ではありません。そこに通りかかった祭司やレビ人は、その当
時、人々から尊敬されている人たちです。しかし、ふたりとも反対側を通り過ぎて
行ってしまった後に、サマリヤ人がやって来ました。サマリヤ人は強盗に襲われた
者をかわいそうに思ったと書いてあります。
ここで誰が近寄ったと書いてありますか?強盗に襲われた者が、助けを求めてサマ
リヤ人に近づいたのではなく、サマリヤ人の方から近づきました。何故なら、半殺
しに合っていたと書かれています。何もすることができない状態で倒れていました。
もしこの時、強盗に襲われた者が生き生きしているところに、サマリヤ人が近づい
たならば、サマリヤ人をののしって、離れなさいと言ったでしょう 。何故なら当時
のユダヤ人たちはサマリヤ人を犬のように扱っていたからです。
ここでどこにいる - ロン·グッドウィンは、
強盗に襲われた者のように、私たちもこのようにして罪から救われます。
では律法学者がイエスに尋ねたました。永遠の命を受ける、つまり救われるために
はどうすればいいのでしょう?
強盗に襲われた者のように、私たちには何もできないんです。
人は自分で罪と戦おうとします。自分の良心によって罪を犯さないように頑張るの
ですが、人間の力では罪に打ち勝つことができません。いくら祈っても、休まず教
会へ通っても、聖書を読んでも、人は罪を犯します。
では罪の赦しをどうやって受けますか?「この罪を赦してください」とイエスの御
名によって祈ることですか? 罪の赦しは祈りで受けるものではありません。
ようするに、人間の行いではあり ません。ただ熱心に祈ったり、聖書を読んだり、
そのような生活を送っていれば、表面的にはイエスと関わりを持っているようです
が、実際には神と全く関わりのない人です。
「その日には大勢の者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの
名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇
跡をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣
告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから
離れて行け。』」 マタイ7:22〜23
ここで言っている「その日」というのは裁きの日のことです。
彼らは私が得たものを見るためにブロックの周りに並んでされるでしょう
神が望まれるのは、自分に希望がない人、望みがない人です。自分は滅びるしかない
ということを心から知るならばイエスがあなたのすぐそばに近寄ります。
「私は大丈夫。私はイエスを正しく信じている。」と思うならば、そのような人は神
と遠く離れてしまっています。 聖書の中にはそういった人間の心が描かれています。
「教会に行けばクリスチャン」ではありません。罪を犯さないように頑張るのが信仰
ではありません。そのような心は聖書に描かれている律法学者たちと同じです。
私が救われているからといって、誇れるものは何ひとつありません。救いは神による
ものだからです 。私に主がおられなければ、私には何の価値もありません。
サマリヤ人はイエスキリストを表わします。そして強盗に襲われた人の傷にオリーブ
油とぶどう酒を注ぎました。ぶどう酒にはアルコールが含まれている消毒の作用があ
りますから、まず先にぶどう酒を注ぎますね このぶどう酒はイエスキリストの血の
ことです。イエスキリストの血が罪を清めることを表わしています。そしてその後に
オリーブ油を注ぎました。聖書で油を注ぐという言葉がよくでてきますが、この油は
聖霊を表わしています。そして、宿屋は教会です。サマリヤ人が2デナリ渡しました。
これはイエスキリストが罪の代価を支払ったことです。そして「もっと費用がかかっ
たら、私が帰りに払います。」と言いました。ぶどう酒 もオリーブ油も家畜も、誰の
ものですか?それはイエスのものです。
救いはイエスキリストだけです。 イエスキリストの血があなたを救うことができ
ます。そしてイエスが心を導いてくださるとき、私たちは幸いなものとなるでしょう。
サマリヤ人が宿屋に連れて行ったように、そのイエスが私を教会に置いてください
ました。私が正しい教会を選んだのではありません。
ローマ書4:4〜5を読んでください。
「働く者のばあいに、その報酬は恵みではなくて、当然支払われるべきものとみなさ
れます。何の働きもないものが、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、
その信仰が義とみなされるのです。」
不敬虔なものを義と認めてくださる主を信じるならば、その人は罪人でなく義人とみ
なされるのです。し かし、自分で敬虔な者になろうとしてもその心は神とは関わりが
ありません。
そのために、まず神のしもべを通して語られる聖書の福音を聞いてみてください。
聞くだけでいいです。自分で信じようとしなくても、神の恵みを受ければ自然に心に
流れると思います。
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